昭和49年12月12日 朝の御理解
第68節 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ 。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心 経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ 。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神に は聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人に ものを言うとおりに拝め。
まあ、神信心が難しい、信心も難しいとこう。まあ、神参りをするに、雨が降るから、風が吹くからと。と、いわば言うような時でも、お参りをせねばならん。そういう意味で難しいと言やあ難しいですね。一番最後のところに、えー、小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり、節をつけたりせんでも、人に物を言う通りに拝めと。ここんところは、(平易?)です。信心っちゃあ、そげん難しい事じゃない、そんな感じが致します。
色々な形式を覚えたり、色々難しい事を覚える事が信心ではない。問題はおかげを受ける事が信心。お徳を受ける事が信心。そういうところを、ここの69節には説いてあると思うです。これは、例えば私の信心ですけれども。なら、朝の御祈念。なら、御祈念の時に、それこそ小さい声も出さなければ、ね、もちろん大きな声はなおさら出しませんし。以前は出しておりました。もう、大きな声で、もう私の信者時代でも、もう大坪さんと一緒に御祈念をするとおかげを頂くち。
もう、一生懸命の大祓いを、例えば天地祝詞を上げる。一生懸命の御祈念をさせてもらい、そして様々な願い事を、まあ、側におるなら聞こえるくらいに、いわば声に出して拝んでおった時代もございます。もう、それは本当に心行くまでの御祈念をするという事は、もうあの、大祓いなんかでも一生懸命大きな声を出して拝んでおりますと、心がもう言うなら( )、もう無雑なもの。ね。もう本当に神様が聞いて下さったという気がするんです。一生懸命御祈念を、天地祝詞大祓い。そして、心の行くまで、なら大祓いでも(何回も何回も?)あげる。
そして、願いの(たけ?)を一生懸命、あの事この事を一生懸命願わせてもらう。もう、願わせてもろうて、自分の心の中に、神様が聞いて下さった、聞き届けて下さったといったような感じが出けるまで御祈念をする。これは、私の言うなら過去の信心はそうでした。けれども、それがいけないという事じゃないのです。大きな声をしたり、節をつけたりしたりしてはいけないと言うのじゃないです。御祈念をさせて頂くでも、やはりあの、一つのリズムというものがあります。ね。
大祭なんか、御本部参拝させてもらいますと、まあ、関西、関東、九州、それぞれに違うんですね。その、節回しが違う。だから、みょうな感じがするですね。ように、やはりあの、私共は、まあ九州の流儀ですけれども。その、一つの流儀と言うか。例えば、御陛下なら御陛下のように、一つの節が、やっぱりいつの間にか出けております。ですから、その節が一つのリズムになって、何とも言えん心良い信心をしておって、感じる気分がいい。終わった後に何とも言えん、その有り難いものを感ずる事が出ける。
だから、皆に例えば揃うて、あの一つのリズムに乗って御祈念をする。(それから?)、なら御祈念、様々な祈り、願い事をさせてもらう事は、それこそ人に物を言う通りに拝めと教えられるのですけれども。やはり、拝むにも、まずお礼、お詫び。そして、願いといったような順序立てて、まあ拝ませて頂くのが本当だという風にだんだん分かって来る。
で、そこを通り抜けさせて頂いて、なら今日私が神様との間の、言うなら御祈念というのは、神様との交流ですから。えー、何をお願いするという事でもない。ただ、自分の心に、ね、浮かぶ事、思う事。その事を、次々、神様に。それも、心の中で思うだけである。ね。ですから私はここの68節はです。えー、神参りをするに、雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならんと、いわゆるその時、辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰せられるのですから。
ここの辛抱がし抜けなければです、私はあの、言うなら、今私が日々の御祈念の中に、物を言わんでも、思うただけでも神様が聞いて下さるといったようなおかげになって来ないと思う。ね。見やすい、けれども難しい。神参りをするのに、もう眠たいから今日は御無礼しとこう。今日は雨が降りよるから、また参ろうと。と、いうような信心ではいけない。
ましてや、人生の上にです、起きて来る雨やら風やら。ね、生活の中にも、やはり雨があり風がある。ね、そういう中にです。それは、楽ばかりを願うといったような信心ではならん。それを、生神金光大神様のお取次ぎを頂きながら。ね、それを辛抱し、こらえ抜かせて頂いて、初めて身に徳を受ける事が出ける。ですから、どうもその辺のところがです。だんだん、その事が有り難い事に身について来るおかげを頂かなければ、やはり難しい事になるです。ね。
何と言うですか、一心発起。本気で一つ、お参りをさせてもらおう、一修行させてもらおう。まっ、特別なお願いでも立てますと、とりわけそういう心が起きて参ります。だから、そういう時にです、信心辛抱のいわば有り難さ。身に徳を受ける信心辛抱のおかげをです。そういう時に、まあ頂いて。ね、雨が降ろうが、風が吹こうが、そこを頂き抜いて行く、行けれる信心。人生の上の雨風も同じ事です。それを、ね、有り難いと分からせてもらうところまで、おかげを頂くということ。
今日はある方が、羽織は着てないですけども、袴を履いておる姿を頂いた。ところがその、袴のこの腰板んところが下へこう、ずんだれとる。(尻のに引っかかった?)ような感じ。袴を履いておるのが、それはまあ、キチッと致します。ね、袴を、羽織(はか?)でもちゃんと着けて。白癬の一つもこう持ってみると、もうそれこそ、意義を正さなければおられない。横座りどん出けん、そんな感じが致します。ね。まして、そういう例えば、キチッとしたあの、状態の時にです。今度はなら、袴の言うならば、が下にずだれておるというだけでもです、かえって見苦しいもんですね、そういう事は。
袴を着けておるという事は、キチッとして見えるけれども、それがずんだれておると、むしろもう、履かんほうが良かという事になります。信心もそうです。信心をさせて頂いておる。けれども、その信心がです、やはりキチッとしたものになって参りませんとね、言うなら節度のあるもの。言うならば、本当な意味においての信心生活が出けるようになる事。その事が有り難いと分からせてもらう信心になりませんと。ね、かえって信心というものが、ね、ずんだれて参りますと。ね、袴は履いとらん方が、かえって良い事になります。
信心はしとらん方がです、かえって良いというような事にすらなります。ね、けれども、どうでも信心はさせて頂かなければならない。身に徳を受ける修行じゃと仰る、私共がこの世に、身に徳を受けるためにこの世に出てきておると言うても良いのですから、本当は。ね、そこを一度分からせて頂いてです。言うならば、雨が降るから、風が吹くからというような、そこんところにキチッとした節度を持ってです。そういう時こそ、むしろ徳を受ける時だという、一つの喜び、勇みを持ってです。楽しみを持って、その事に打ち込ませて頂くと、初めて身に徳を受ける信心辛抱の徳が受けられる。
ね、そういう例えばおかげを頂かせて頂いてです。なら、私が徳を受けておるという訳ではないですけれども、最近、なら私は声を出して拝んだり、大祓いを、天地祝詞も上げません。ただ、御神前に、ただ静かに向かずいておるだけにしか見えませんけれども、向かずいておるだけではない。私の心の中に様々な事を思う。言うなら、心の中で願い、心の中で詫びる。心の中でお願いをさせて頂いておるのですけれども、神様がその願いもお詫びも、ね、またはお礼も聞き届けて下さったという時間があります。
また、おかげもそのように現れて参ります。ね、ですから、どうでも、やはり一偏、皆さんがなら、完璧にです。雨が降るから、風が吹くからと。これまだ、特に人生の上においても、はあ、今が雨じゃろう。なら、今が風が吹きよるとこだろうと思う時には、ヘトヘトするようにもあります。ちょっと一服せにゃおられん事もありますけれどもです。ね、そこを、なら繰り返し、繰り返し、本当な事への信心を目指させて頂いてです。その中間においてです。ね。私はもう、苦しいけれども、一生懸命の御祈念をする。
心が定まらないけれども、心が乱れるけれども、一生懸命の言うならば御祈念をする。自分の、例えば御祈念をする。大祓いなら大祓いをする、奏上させて頂いておる、その一生懸命の声に、自分がこう、酔うような気持ちがする。そのリズムに乗ると、何とも心良い感じがする。ね、ですから、そういうところをです。ね、私は、皆さんは今一生懸命通っとるではなかろうかと、こう思う。ね、だから、なら人に物を言うとおりに拝めと仰せられるのですけれども、天地祝詞も覚えなきゃいけん、もちろん、大祓い拝詞も覚えさせて頂いて。
いつ何時、どこででもです。もう一生懸命にそれが奏上されて。そして、願い事、様々な言うなら御祈念にも入らせて頂けれる、その心の言うならば準備とでも申しましょうか。神様へ向かう一つの準備、段取りをです。私は、御祈念の形、形式の中から体得して行くべきではないかと、こう思います。ね。だんだん、身に徳を受けて行く事。言うならば、雨が降るから、風が吹くから。様々な問題の中にあるけれども、その問題そのものがです、天地自然の働きの現れである。
神様の御働きである。雨も風も、むしろお恵みであるとして頂けるように、私はならせて頂いたら。ね、いつでも何処ででも、ただ言うなら、心で思うただけで神様がお聞き届けを頂けれるようなおかげも頂けると思うのです。ね、やはり信心のけいこという事は、そういうだから、形式も先ずは覚えなければいけないという事です。ただ、ここにありますように、朝参りをするとか、神参りをするに、雨が降るから、風が吹くからというところを抜きにして。
一番の最後のところだけを頂きますと、ね。何か、ね、もうそれこそ神様と初めから心安うなってから、人に物を言うように神様にも拝めるという事は、本当に意と簡単な事のようでありますけれども。ね、そう出けれるおかげを頂きたいです。ですから、そう頂く前提としてです。まずは、雨が吹くから、風が吹くからと、偉いで思わんで済む。いや、偉いと思うても、そこをグッと辛抱し抜くという修行が出けてからの、ね、(へいぎ?)な信心。
言うならば、人に物を言うとおりという事は、もう普通( )だという意味だと思うです。ね、そこには、形もなからなければ、形式もいらない。けれども、もうすでに、形も形式も、体得が出けてしまっておるという事になった時に、初めて、ね、通るとこを通っての見やすい信心。通るとこを通っての、人に物を言うとおりに拝めというところが、頂けて来るんじゃないかと思います。それは、一番初めに。ね、信心をする方は何も知りません、分かりません。
だから、そういう場合にもです。そういう場合にも、最後のところも私は申します。もうとにかく、ね、ただ金光様という事を唱える事を覚えなさい。まあ、出けるなら天地書付を覚えなさい。ね、そして自分の心の中に苦しいと思うこと。またお願いをしなければならない事を、まっ、実意を持って本気でその事を、繰り返し、繰り返し願いなさい。もう、人を、人にものを言う通りのお願いでいいですよと申します。
これはただし、一番、初心の時です。ね、天地祝詞一つ知らない時の、時代の事です。初めていわば参った時の、これは、ここは御理解です。だから、その事をです、何時いつまでもその通りであっては、信心は一つも成長してない事になります。見やすいように言うておられて、一番初めに難しい事を言うておられる。言うならば、頭難しゅう、尻美しゅうという意味な事を申しますがね。だから、やはり初めの間はちった難しい。なかなか信心も、やおう行かんというようなところも通るけれどもです。そこを、通り抜かせて頂く辛抱を身につけて行くということ。
ただのけいこ事じゃない。それこそ、この世に私共が生を受けておるという事は、ね、いわゆる身に徳を受ける、修行させて頂く為にこの世には生を受けておるんだという事実が、本当に色んな角度からわかったらです。ね。色んな問題を通して御神縁を頂いたが。そこからの信心がです、ね、辛抱。いわゆる信心辛抱の徳を身に受けて。ね。辛抱するという事の尊さ、有り難さというものが身に付いて来る。言うならば、神様と私共がもう、(ふり?)の物、一体な物。
いつも、神様が私の心の中に宿っておって下さる。いつも、私共の心が神様の中に突入しておる。ね、そういう私は、おかげを目指させて頂くという事を、ここの68節には、あの、説いてあるという風に思うです。ね。信心も、いわゆる気安い(て言うかです?)、やっぱ初めは。けども、その気安うがです、だんだん、ね、言うならば形式も、言うならば形の事も覚えてくる。そういう時代にです、私は、言うならば信心という袴を履いたらです。その、ずんだれておるような信心では、かえって見苦しい。
ね、ですから何時も袴を履いた信心という事は、言うならばキチッとした信心をです、頂き抜かせて頂く、いわゆる信心が身に付いてしまうまでの信心がです、出けたら、後は見やすいっていう訳。いや、見やすうなって来る。ね、信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰せられますけれども。まあ、そういうような意味も、ここには私は、一緒に頂かなければならない。見やすいものではない。ね、それこそ、雨が降っても、風が振っても、辛抱し抜こうと言うんですけれども。その辛抱し抜かせて頂く事が有り難いと分かったら、もう雨も風も平気な事になり、有り難い事になりますから、見やすい事になるのです。
ね、そして、言うなら身に徳がついて行くのを自分で感じるような。ね、また御祈念をさせて頂いてもです。神様がいちいちうなずいて下さって、神様、聞き届けて下さるような、言うなら実感がです。ね、出けるところまで、一つ信心を進めて行きたい。そして信心は、確かに見やすいもの。なるほど、信心は人に物を言うとおりに、神様にも申し上げれるような状態が生まれて来る。ね。見やすい、最後の見やすいところをです。私共が、ね、本当に見やすうならせて頂くために。神参りをするに、雨が降るから風が吹くから偉いと思うてはならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと思うてです。ね、信心を身に付けて行かなければいけないと思いますね。どうぞ。
末永信太郎 ( 8月26日 )